「イシクニズム」 Vol.22

「イシクニズム」 Vol.22

時計バンドの本質と存在理由 その1

 

ここに先代石田康國が1971年(昭和46年)に書いた考察がある。
3章から成り、その第1章が「時計バンドの本質と存在理由」である。
53年前の文章ではあるが、現在の時計・時計バンド業界の状況を示唆する記述がされている。
この機会に原文をそのまま掲載させて頂きたい。
長文になるため2回に分けさせて頂く。

 先代石田康國

「時計を腕に固定させることが活動上最も便利で簡単であるといった必要(needs)から時計バンドは生まれ、時代と共に消費者の高まる欲望や業界の利益追求が、技術、アイデア、販売方法等の革新を進めさせ、今日の商品の姿にまで至ったものと思う。

そして、従来の感覚で表現される時計が主で、時計バンドは従といった関係の中にあっても、お互いはあくまで独立しているとする考え方と、時計+時計バンド=完成品(腕時計)であり、時計バンドは一部品に過ぎないとする考え方があるように思う。

 

前者の立場では時計バンドをアクセサリー化し、流行を作り、且、その流行を追わせることにより、その存在理由が確かめられそうな気もするが、一時代扱い業者の個人的都合でかくの如く宣伝するといった感じも強く、時計と時計バンドの綜合的価値比較からみると当然影がうすくなる。

従って近いうちに後者の考え方が肯定され、主流となるように思えてならない。

 

さて、時計を身近に具える場合、腕にはめるのが一番良いと言った命題は、置時計から懐中時計へ、そして腕時計へと進んだ時計の歴史が証明してくれるように思う。


それ故、五体、五官の機能が大きく変ることは考えられない以上、これは最良の場所であるとして深く考えぬこととしよう。

 

では次に、現在の時計が絶対のものかと考えるならば、取り上げて話題とすることすらおかしいと思う業者もあるかも知れないが、そう簡単に割切っては困ることで、私にはこれは否定されるものとすら思えてくる。

 

何故ならば、時計とは時間という情報を伝達する機器にすぎず、時間情報を伝達するものは、時計でなければならぬということにはならないからである。

 

現在、時間を教えるものには時計をはじめ、時報、ラジオ、テレビ、電話等々あることは自明のことである。

 

別の角度から商品がその機能を売りものとし、その機能の合理化、単純化を図っている間は、成長期であり、デザイン等々うんぬんしだした時、その衰微が始っているの筆法をもってすれば時計自体情報の分野を拡大すべく、日付、曜日入、目覚し付等へ進んだことも、用途の上から防水へと進んだことも、合理化上エレクトロニクスの方面へ向かったことも正しく、全盛期を目指して猛進しているとも思わせたが、デザインに、また、使い捨てのピンレバーにとの動きは、何か下降線の始まりを感じさせる。

 

即ち、時計と言えども現在のままのものをもってしては、その骨董的価値と装飾的価値を除くとき、未来にわたって存在するという理由は見当たらない。

 

数多くの情報の中にあって時間はその一部分を占めるにすぎず、包括的な情報機器が時計を包含しさる時期は身近なものに思えてくる。」  

(Vol.23に続く)

 

by Kunihisa Ishida